5分でわかる膳所城の遺構や見どころ観光ポイント
【膳所城レポ1/3】
膳所城は現在の滋賀県大津市にあった平城です。
かつての坂本城や長浜城の様に、城の背後が琵琶湖に突き出た作りになっており、琵琶湖の水を防御に利用した城でもありました。
別名・石鹿(せきろく)城。
そんな膳所城は現在、公園として市民の憩いの場になっていますが、公園内にはかつての遺構や見どころが点在していますので、膳所城の7つの観光ポイントをチェックしてみたいと思います。
- 城門
- 石碑のウラ
- 建物の跡?
- 石垣になったお地蔵さま
- 膳所城の石垣
- 琵琶湖の石垣
- 天守閣跡
現在建っている城門は復元されたものですが、こういったものがあると、『城に来た〜!』と、気分も高まりますね。
城門の瓦をよく見てみると、三つ葉のクローバーみたいなマークがありますが、あれはかつて膳所城主だった本多氏の立ち葵という家紋です。
公園を入って中に進んでいくと、【膳所城址】という石碑がありますが、その裏を見てみると楔(くさび)のあとが残っています。
これは昔、機械が無かった時代に1つの石を割る方法でした。
石の中央に穴を開け、そこに木杭みたいなものを打ち込んで割るのですが、その後が残されています。
もしかするとこの石は2つに割られて分割される予定が、取りやめになり、そのまま石碑になったのかもしれませんね。
そんなエピソードを想わせる楔です。
公園のほぼ中央に土が盛られた場所がありますが、もしかするとここに何かの建物があった?と思う雰囲気のが残ります。
実際に膳所城は天守もあった城で、城内にいろんな建物があったみたいなので、これもその跡でしょうか?
膳所城址公園の中に、たくさんのお地蔵さまが祀られている堂がありますが、これらのお地蔵さまは戦国時代からのエピソードが残っています。
元亀二年(1571)、織田信長は比叡山延暦寺を焼打ちしましたが、その後、明智光秀に命じて坂本城を築かせました。
その時に比叡山延暦寺にあった多くのお地蔵さまを引きずり降ろし、坂本城の石垣に使わせたのです。
本能寺の変後の天正十二年(1584)年、羽柴秀吉は大津城を築くことになり、廃城となっていた坂本城から石垣のお地蔵さまを運んで、大津城の礎石にしました。
時代は流れ関ヶ原合戦の翌年である慶長六年(1601)、徳川家康は藤堂高虎に命じて膳所城を築かせますが、その時も廃城となった大津城のお地蔵さまを運んで、膳所城に組み込みます。
そんな膳所城は明治三年に廃城となりましたが、その時に本丸、二ノ丸、三ノ丸からこれらのお地蔵さまが大量に出てきました。
しばらく放置されていたそうですが、昭和三十八年に有志の方々により、祠が築かれ、現在では約60体が祀られています。
つまりこれらのお地蔵さまは、織田信長から現在に続く石垣のお地蔵さまなんです。
膳所城には、かつての遺構として石垣が点在しています。滋賀県には、かつて石垣を組む専門集団・穴太衆(あのうしゅう)がいましたので、この石垣も穴太衆が組んだものでしょうか?
膳所城が築城されてから400年以上経ちますので、これらの石垣は修復されたかどうかは分かりませんが、歴史ある遺構ともいえるでしょう。
膳所城は本丸背後が琵琶湖になっており、琵琶湖の水を城の防御に取り入れた作りになっています。
現在でも本丸から琵琶湖に続いており、琵琶湖の湖面にも石垣が残っています。
膳所城の本丸にはかつて四重四階の天守があったそうで、その跡地に石碑が建っています。
膳所城周辺は西側が山ですが、それ以外は平地も広がっており、ここに四重四階の天守があったら琵琶湖含め、かなり遠くまで見渡せたのではないかと思います。
ということで、現在に残る膳所城の見どころや観光ポイントを、7つまとめてみましたがいかがでしょうか?
膳所城に行った時には是非、チェックしてみてください!
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